原爆の夢にうなされるたびに、全身が汗でぐっしょりとなった。
高校の同級生に強烈な印象を与えた有名な話がある。
倫理の時間に、教師から指名されたKが人生観を語ったときのことだ。
「僕は被爆者です。
三歳のときに被爆し、周囲の者は皆死んだのに、瓦礁の中からただ一人、奇跡的に助け出されました。
高校のときに曙血し、原爆症の発症ではないかと悩みました」高校を休学して、四年間の療養所での生活。
学業の遅れ、病気のこと、原爆症のことを考えると、焦りと不安に苛まれた。
生きる目的を見失いがちになった。
「人生とは何か。
人生はどう生きるべきか。
僕は常に考えています」答えを求めるために、教会の門を叩いたり、座禅を組んだり、お堂にこもったり、法華経を唱えたりもした。
ニーチェや般若心経など難解な哲学・宗教書から得たものを、話の間に挟みながら、何かに憑かれたように話を続けた。
倫理の授業は、Kの独演会となった。
Kのしゃべり方があまりに真撃で説得力があったため、魂を揺さぶるものがあったのだろう。
中には、涙を流す級友もいた。
後年の、人を感動させるカリスマ的能力や宗教への傾斜は、この高校時代の逸話に芽をみることができる。
数千人の投資家集団「Sグループ」を率い、兜町の風雲児と呼ばれたK。
S事件で逮捕され、そして復活。
バブル経済を挟みながら、一九八0年代の兜町を疾駆した若き相場師である。
Kの勧めで仕手戦が始まった。
一九七七年五月、H相銀が資金スポンサーになりD機器(のちにZと社名変更し、独Bの日本法人に吸収合併される)株式の買い占めが始まった。
D機器株は、Kがデビューを飾った仕手戦である。
この仕手戦が誠備グループが発足するきっかけとなった。
D機器の株式の仕手戦に関してこんな話が残っている。
のちにEの死後、実権を握った、Iら四人組は仕手戦を手仕舞うよう、強固に主張した。
だが、K一族は仕手戦を続行した。
EがKの勧めで仕手戦に乗ったのは、実弟で衆院議員のKの政治資金を捻出するためだったといわれている。
しかし、同年八月になっても、買い占めた株の肩代わり先が決まらず、にっちも、さっちも身動きが取れなくなってしまった。
戦いが泥沼化したという表現がピッタリの情況になったのだ。
兜町では「仕手戦の本尊はH相銀」と公然とささやかれた。
実際、D機器の株式の買い占め資金は、すべてH相銀から出ていた。
融資額は一二0億円に達し、経営上の大きな問題となっていた。
とはいっても、銀行の信用に関わるため、仕手筋への資金提供の事実を表に出すわけにはいかなかった。
焦ったEは、Kを激しくなじり、事態の収拾を命じた。
Kが担ぎ出したのが、N振興会会長のSである。
Sは大阪府出身。
戦前、K大衆党を結成して総裁に就任。
イタリアのNと会談するなど右翼活動を展開し、一九四二年には、翼賛選挙で初当選した。
戦後は、A級戦犯として、KやKらとともにS拘置所に入った。
出所後に競艇事業を手がけ、六二年、競艇の売上金の一部を全国の公益事業に提供する窓口になるN振興会を設立、会長に就任した。
Sは莫大な資金を背景に政財界に影響力を行使し、日本のドンと称せられた。
KがSの懐に深く入り込むことができたのは、信心からだった。
Sは、母親を背負って四国の金万比羅さまの階段を昇る銅像を建立するなど、神仏に対する信心は人一倍厚かった。
原爆症、結核療養の不安から宗教に救いを求めたKと相通ずるものがあった。
Kを気に入ったSは、D機器株式の引き取りについて、H相銀のKに会うことを了承した。
Kが仲立ちして、東京・小石川のS邸で、SとKの会談が持たれた。
席には、H相銀の四天王も顔を揃えた。
Kが、「絶対に迷惑はかけないから、Sさんに、『よろしく頼むと、直接、いってくれ』」と、Kを引っ張り出したのだ。
Kは、Sの前で「よろしくお願いします」と頭を下げた。
Sは仕手戦の収拾を引き受けた。
買い占められたD機器株式のすべてを息子のS名義に書き換えた。
D機器の大株主として、Sの名前が挙がり、株買い集めの資金スポンサー、H相銀の名前は消えた。
この株式をいろいろな会社に、はめ込む工作をして、買い占めの問題が最終的に決着するのは、それから二年数ヵ月後の一九八0年二月のことだった。
株のはめ込みで利益が出たらSに、損が出たらH相銀が被るという一札が入っていたため、H相銀は七0億円の損失を被った。
四人組によるK一族の追放一九七九年六月、Eが亡くなる。
すると、Eの負の遺産が噴出した。
グループの後継の座をめぐって、Eの長男であるK(当時、常務)と、Eの実弟で社長のK、T(当時、副社長)の間で内紛が生じた。
Eの特命でトラブル処理を担当していたYは『謀略の金扉風』を著し、次のように書く。
K氏とS氏の衝突があからさまになったのは、E氏が亡くなり、市川の自宅の密葬の際、参列者への挨拶を誰にするかでモメた時でした。
銀行葬とする以上、社長であるS氏が挨拶するべきだと強く主張したのがS氏に近かったI氏でしたEは、Kを検事にするつもりだった。
一族から検事を出せば、H相銀のダーティーなイメージを封印できると考えたのである。
だが、Kは一九六九年にK大学法学部を卒業後、七回司法試験に挑戦したが、合格できなかった。
Eは、Kを検事にすることを諦め、七六年に、H相銀に取締役として入社させた。
Eが当初、後継者にするつもりだったのが、長女・良子の娘婿のIである。
一九六三年にT法学部を卒業して警察庁に入り、学生運動の一つのピークといわれたT安田講堂事件のときには第七機動隊隊長として龍城する学生を排除する指揮をとった。
元警察庁長官の後Gに可愛がられ、Gの世話で、Eの長女と結婚。
本富士署の署長を務めた後、七一年にH相銀に入社した。
Yの攻防戦について、少し書く。
「連帯を求めて孤立を恐れず力及ばずして外れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」。
Y内にあった有名な撤文の落書きである。
TYに立てこもったのはT全共闘。
バリケードの中には、地方からの大学生、一般市民のほかに、高校生も少なからずいた。
一九六九年一月一八日、八五00人の機動隊がT学内に導入され、二日間の攻防の末、逮捕者は三00人余。
このうちT生はおよそ二割。
T全共闘(正式名称はT闘争全学共闘会議)の代表・Yは、Y落城後、二百余日、潜行し、H野外音楽堂で、講演する寸前に逮捕された。
Kと叔父であるSはすでに犬猿の仲だった。
IはSと組んでKを追い出してH相銀の実権を握ろうとした。
一方、Kは、SとIを排除することを狙った。
K氏は葬儀も済まないうちに「S氏とは近々一戦を交えるから自分についてくれ」と、銀行の役員の取り込みにかかっていたというのです。
K側についたのが、のちにH相銀の実権を握ることになる監査役のIである。
0は「B誌』(一九八六年九月号)「特捜検事・Iの転落」で、こう書いている。
K未亡人に、千葉県市川市中山のK邸に呼ばれた。
未亡人は、応接間で、Iにこう頼んだ。
「Iに、夫が築いた銀行を任せるわけにはいきません。
Iを、銀行から追放していただきたい」Eの長男・Kも、未亡人といっしょに頭を下げた未亡人は、自分の息子を社長にしたかったのだ。
Iは行内で「実権派四人組」といわれていた。
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